義民塚をお参りしてきました。
1950年、松本市立丸の内中学校の建設現場から18体の人骨が掘り出されました。研究者らが調べると貞享騒動刑死者たちのものであり、この地が松本藩の臨時の刑場跡であったことが分かりました。
1686年、安曇平は不作でしたが、年貢を1俵あたり3斗から3斗5升に引き上げる決定をしました。周辺には天領、高島藩の飛び地があり年貢は1俵あたり2斗5升。当時の安曇野は灌漑が未発達でしたので7割近くは赤米であり、長いノギのまま納めていたのをノギの除去作業を共に命じて、益々重労働となります。
現安曇野市三郷、堀金、当時の中萱村の庄屋、多田加助(嘉助)を中心として訴状を提出することになり、1万人とも伝えられる百姓が松本城周辺へ押し寄せる騒ぎとなりました。当時の藩主、水野忠直は参勤交代で不在、城代家老は要求をのみ引き取らせました。翌月、年貢減免を反故にして関係者を捕縛、女、子どもを含む、磔8名、獄門20名の極刑に処しました。騒動の後、2斗5升までの年貢の減免は認められなかったのですが、元通りの3斗に引き下げられ、ノギ取り作業は免除されることになりました。
1952年に、その慰霊のための義民塚がつくられました。
子どものころ、多田加助の話を聞いて凄い人だなあと感心しました。自分を犠牲にしても民の生活を守る姿勢は、安曇平の農民の英雄ですね。